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インターネッツ

ヤヴァさと荒川修作と、土に潜る。

さてと日記でも書きますかな。

 

Youtubeで女王蜂のアヴちゃんの「ヴァイオレンス」が

流れてきたので、気になってオーディション番組を全部通して見た。

 

女王蜂は知ってたけども、歌ってる人がどんな人なのかは知らなかったので、

正直驚いた。

 

その風貌は、今までに見たことがない人種であるかのような

見た目をしていた。

 

その見た目にも関わらず、すぐに受け入れることができたのは、

そのオモテの皮と内側の魂が一致しているからだと思う。

 

オーディションの内容も良かった。

 

昨日の夜中にみた荒川修作の映画やインタビューのことも、

今の自分にはまだ残ってる。

 

言葉が昨日の自分とはまた違う。

この違和感。

 

違う自分であるから、違うことを認めてみようと思う。

昨日の自分を追いかけることなく、問いかけてみようと思う。

 

別人だった。

考え方やテンションまで、まるで別人で、考えていることがわからない。

 

今日は研究室のミーティングや家庭教師があった。

それ以外の時間は大体寝ていた。

 

家庭教師が終わってからようやくと英語をやってみるかという気持ちになった。

 

日記というのは難しいもので、その日の出来事を記録するだけのものではないのだろう。

 

言葉を残すことは、資産になる。

そして、言葉を吐き出す練習になる。

どこかのブログが発生練習というタイトルをつけていたな。

 

芸術は終わったのだと、たしかにそう思える。

今ある芸術のようなもの、絵画・彫刻・インスタレーションは、

フィクションだ。

 

フィクションは、現実の世界の人間をフィクションの欲望に誘う。

現実の欲望をフィクションによって解消する。

 

デュシャン以後、芸術は終わったはずであり、

ポップアートは最後の一息みたいなものだ。

 

でも芸術を捨てることができない芸術家たちは、

フィクションの絵画から離れられない。

 

フィクションを現実にするという欲望を抑えられない。

絵画で人生を変えるのは難しくなった時代だと思う。

 

唯一救うことができるのは自分だけだ。

自分の心を治療することはできる。

 

気配を感じることができるようになるためには、

訓練が必要だと思う。

自然の声を聴くためには、イメージと時間と決意が必要だと思う。

 

人間には1000の感覚がある。

無数の器官で世界と混じり合っている。

赤ちゃんが手足を動かすように、すべての体の部位が

今この瞬間も世界を泳ごうとしている。

 

世界からネガティブに見出されるかたちとしての私。

産み落とされた私。

 

土に潜ってみた。

まだ何も聞こえなかった。