小学校の国語の教科書に、こんな詩が載っていた。
「ケムシ」
さんぱつはきらい
たった8文字
たった8文字の詩。今日はこの問題作について考えてみる(暇だから)。毛虫にとって散髪するとは?彼らにとって髪は「毛」なのだから「毛」をとってしまえばただの虫になってしまう。それは嫌だろう。毛虫が散髪を嫌う理由はよくわかる。
...いやおかしい。毛虫が「毛がなくなったら嫌だ」なんて考えるはずがない。みちおが勝手に毛虫を見て「お前に毛がなくなったら悲しいな笑」と思っただけだろう。
毛虫が本当に嫌いなのは、鳥に食べられるとか、踏んづけられるとか、エサが見つからないとかそんなところだ。実際に思考していないにしても。
この詩は一見、毛虫を新しい視点で捉えた面白い詩に思える。しかしながらこの詩が教えてくれるのは、毛虫の気持ちを代弁しようとも人間の視点でしか捉えていないってことなのではないか。
詩は風景を人間の気持ちにたとえて表現する手段だから、詩としてはこれで良い。
散髪は
散髪は髪の毛が伸びた人がしてもらう行為だ。毛虫はどれだけ毛が伸びても切りたくないらしい。
もし毛虫が
もし毛虫が思考できるとして、せいぜい人の言葉で8文字くらいだろうという作者の思いも汲み取れる。
人にして
人にして考えてみると、たしかに自分のアイデンティティを失うのは嫌だ。もし、毛虫の毛がなくなったら?その虫は毛虫であり続けるのか?
毛虫にしても、人間にしても、アイデンティティがなくなろうと自己は連続的に存在する。毛虫に関してはよくわかるが、いざ自分のアイデンティティがなくなったら?生きていけるか不安になる。毛虫と人間に違いはないのに。
アイデンティティってなんだって話にもなるが、「自分が存在していていいと思える信念」にしておこう。
「きらい」
「きらい」って言葉に注目してみる。トマトが嫌いのきらい?あの子が嫌いのきらい?死ぬのが怖いのきらい?
「は」はどうか。もし「さんぱつがきらい」であったならば、毛虫の特徴説明といった印象を与えそうだ。「は」によって毛虫の主張に聞こえる。
散髪といったら
散髪といったら床屋が思い浮かぶ。毛虫を美容院に連れて行ったらいいじゃないか。床屋でなく。カラフルな毛の色に染めてもらうのは「すき」かもしれない。
駄文終わり。眠い。